宿泊業の固定残業代が生む、いちばん静かな問題
弊社では、給与に20時間分の固定残業代(みなし残業)を含めています。ところが実際の残業は、多い月でも一人あたり10時間を超えません。
一見、労使ともに悪くない話に見えます。会社は20時間分を払い、社員は10時間しか働いていない。得をしているのは社員のはずです。
ところが現場に流れていたのは、「残業すると損」という空気でした。少しくらい残業しても20時間の枠は超えないから、追加の手当は1円もつかない。だったら定時で帰ったほうがいい――そういう判断です。
では固定残業代をやめて、実際に働いた分だけ払う形に変えればいい。理屈ではそうなのですが、そう単純ではありません。20時間分の手当は、社員にとってすでに「毎月入ってくる給料」です。これを外せば手取りが下がり、モチベーションの低下や離職を招きかねない。だから踏み切れない。
同じ悩みを抱えている宿泊業の方は、少なくないのではないでしょうか。
宿泊業だからこそ、こじれやすい
宿泊業の場合、事情はもう少し複雑です。
まず、繁閑差が大きい。GW・お盆・年末年始と閑散期とでは、必要な労働時間がまるで違います。固定残業代は、この波を平準化する道具として導入されがちです。
次に、採用の問題。人手不足が続くなか、求人票の月給額は少しでも高く見せたい。固定残業代を含めた総額表示は、その意味で採用上の武器でもありました。帝国データバンクの2026年4月調査では、旅館・ホテル業の非正社員不足は38.5%と、全業種平均の28.3%を大きく上回っています。人が採れない以上、見せ方を落とすわけにはいかない、という事情です。
そして、シフト制と通し勤務。残業がどこから始まるのかが曖昧になりやすい業態で、固定残業代は「細かい計算をしなくて済む」便利な仕組みでもあります。
だからこそ、いざ見直そうとすると、採用・シフト・賃金体系のすべてに手が伸びてしまう。多くの宿が動けずにいる理由は、ここにあります。
視点を変える ― 原資は、もう払っている
ここで一度、事実を整理してみます。
会社は毎月20時間分を払い、実際の稼働は10時間以下。つまり差額の10時間分は、すでに賃金として支給済みです。固定残業代は事実上「基本給の一部」として機能していて、社員のほうもそう受け止めている。
そう捉え直すと、選択肢は3つに整理できます。
A案:固定残業代を廃止し、同額を基本給や役割手当に振り替えたうえで、実残業は全額支給する
総支給が下がらないため不利益変更にあたらず、最も進めやすい。増えるコストは、一人あたり月10時間分の実残業代程度です。社員から見れば実質的な処遇改善になります。
B案:みなし時間を20時間から10時間に縮め、浮いた分を基本給に振り替える
総人件費はほぼ据え置きのまま、11時間目から手当がつく設計になります。コスト増を許容できない場合の現実解です。
C案:固定残業代を減額し、その分を実残業に回す
総支給が下がるため不利益変更にあたり、原則として一人ひとりの書面同意が必要です。裁判例は同意の有効性を厳しく見ています。おすすめしません。
実行するなら、ここを外さない
A案で進めるなら、昇給のタイミングに合わせるのが最も摩擦の少ないやり方です。制度変更と昇給を同時に打てば、「制度いじりで損をさせられた」という受け止めになりにくい。
注意点も一つ。基本給に組み入れると割増賃金の算定基礎が上がるため、残業単価も上昇します。賞与や退職金が基本給連動なら、その算定式も同時に見直しが必要です。
そして最後に効くのは、全員に「あなたの場合こう変わる」という個別の試算シートを配ること。制度の説明より、自分の数字のほうが人は納得します。
そもそも固定残業代は、金額と対象時間数を明示し、超過分を別途支給していなければ、有効性そのものを否定される裁判例が積み上がっています。見直しは労務リスクの低減にもつながる。「残業すると損」という空気を放置するより、動いたほうがいい理由は、思っているより多いはずです。
※ 実際の制度変更にあたっては、賃金規程の文面や同意書の取り方について、社会保険労務士等の専門家にご確認ください。
出典:帝国データバンク「人手不足に対する企業の動向調査(2026年4月)」

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